なむらの育児日記

うつ~産後うつ、そしてうつへ

自殺未遂して入院したときの話

こんにちは、なむら(@michipokomichi)です。

備忘録として書いてみました。体調は悪くなっていないので、ちょっとは大丈夫になったようです。

 

 

すごく長く感じた入院はたった2ヶ月でした。

 

 

当時、私は働いていました。

育休を終えて復職していました。妊娠が発覚したときに「実家も義実家も遠くて頼れず、自分たちだけで育児するので、時短で働かせて欲しい」と頼みました。そのために職場の近くに引っ越したくらいです。

そしてそれは了承されていたので、私は何の心配もなく復職しました。 職場は町のクリニックでした。拘束時間が長く、9時半〜19時すぎの診療が終わるまで。休憩はお昼の1時間と、夕方の30分でした。

 

ミチは1月うまれなので、4月復帰になると育休期間は1年2ヶ月になります。ミチが6ヶ月を過ぎた頃、私はすでに精神科のお世話になっていて、いろいろ限界でした。一時保育を利用して、週に1度短時間だけ働かせてもらってリフレッシュしていました。そして、夫に頼み込んで育休を取ってもらい、ミチが1歳になったときにフルで復職しました。

その頃は「あー仕事って楽しいなー」って充実した気持ちでいっぱいでした。

 

4月、とうとうやってきます。夫も復職し、慣らし保育になるのでしばらく仕事ができなくなります。保育園からは「何かあるといけないので、慣らし保育中は仕事は控えてください」と言われていました。それを職場に伝えると、案の定雲行きが怪しくなりました。

私は押し切って仕事を休み、慣らし保育を終えました。本格復帰です。夫はほぼ毎日終電帰りの仕事でした。1人で育児と家事と仕事をします。

 

今考えたら無理なんです。

でもその時は不安なんてなくて「よーし、がんばろう!」なんて気持ちでした。 当初の予定では、9時半〜16時の勤務の予定でした。しかし職場の会計士に「他にも小さい子がいるのに働いてる人もいるし、なむらさんだけ特別扱いはできない」と言われ、時短勤務ではなくてパートに勤務形態が変わりました。

小さい子がいる同僚は3人いました。うち1人は実家近くに住んでいて、他の2人は義両親と同居でした。比べるには条件が合いません。でもその時の私は、この仕事が好きだし、働かせてくれるだけでありがたいななんて思っちゃってました。

保育園のお迎えは通常保育は18時15分まででした。職場から保育園は自転車で5分ほど。余裕を持ちたかったので16時までと話していたのですが、夕方の休憩を回すために17時までいて欲しいとお願いされました。最初はまぁ仕方ないなと思っていました。でもだんだんと勤務時間は長くなっていきました。最終的に18時までになり、時間になるとバタバタと着替えて迎えに行く毎日でした。

やはり無理なこともあって、身体が動かない朝もありました。そんな時は子どもが熱を出したと言って自分は仕事を休む、ということをしていました。

 

 

そんなころ、あの会計士にまた言われるのです。

 

「17時までしか働けないならどうして17時までの仕事にしないの?」

「どうして実家の近くに住まなかったの?」

「〇〇さんは延長保育使ってるけどなむらさんは使わないの?」

などなど…。 私は追い詰められていきます。

 

あれ、私ってもしかしていらないのかな?と思うようになりました。 皆んな言わないだけで不満なのかな?と。 仕事に集中できなくなります。 欠勤する日も目立ってきました。

 

 

そして判断力の鈍った私は、職場のトップに話すのでした。

 

「私って辞めた方がいいですか?」

 

みんなの意見を聞いてからにしよう。

そう言われました。否定されなかったのです。あ、そうなんだ…そう思いました。

 

そしてその日、いつも通りバタバタとお迎えに行きワンオペをこなし夜1人になりました。自分なりに頑張っていたけれど、私はいらない人間だったのか…。 すごくショックでした。 なんか、つかれちゃったな。 脱力して空を見て、私は薬を過剰摂取しました。処方されていた薬を全て飲みました。このまま寝たら死ねるだろうか、そんなことを考えて眠りにつきました。

 

しかし朝はやってきました。重い身体を動かし、働かない頭をなんとか回して、いつも通り息子を保育園に連れて行きました。 職場に行きタイムカードを切ったとき、時間は勤務時間を3分過ぎていました。

それを見て「あぁ、こんなにがんばっているのに全然ダメだ。がんばりが足りない。でもこれ以上がんばれない。もう無理だ。」そう思いました。

狭いロッカールームの中でもそもそと着替え、ふと目についたカーテンレール。

記憶はそこで止まっています。

 

 

私はカーテンレールにビニール袋を引っ掛けて、首を吊りました。

平成29年、9月のある日のことでした。

 

 

次の記憶はクリニックで働いている看護師さんの「なんてことしてんだバカ!」という声です。 その次は救急車で運ばれた救急病院でした。 夫と実母がいました。 警察の人もいました。何を話したか覚えていませんが、「辛いときは警察に電話してもいいんですよ」と言われたのは覚えています。 私はずっと泣いていました。 救急病院から紹介状をもらって、そのまま通院していた精神科のクリニックを受診しました。そして入院するために、精神病院に行くことになりました。

なぜかそんな時も私は職場の心配をしていました。入院することになったので、しばらく出勤できないと夫から伝えてもらいました。

 

その日のうちに精神科の病院に行きました。夕方だったと思います。 意識が朦朧としてたのであまり覚えていません。 病室に入ったとき、医者から「今から拘束するけどこれは君が大切だからするんだよ。君を守るためだよ。」と言われたのを覚えています。 両手足と腰にベルトをつけられて、ベッドに寝かされました。寝返りもできません。

後から聞かされましたが、拘束は夫の希望だったそうです。病室でまた自殺行為をしないためのものです。

 

日にち感覚が分かりませんが数日は拘束されたまま過ごしました。同じ姿勢なので背中や腰が痛くなります。その都度ナースコールを押して寝返りをさせてもらってました。トイレに行くときもナースコールです。見張られて用を足しました。

 

何日が経つと拘束が解かれました。病室も移動しました。部屋の中だけですが自由に動けるようになりました。病室には鍵がかかってるので外には出られません。廊下から見えるように窓がついている扉でした。

トイレとベッドだけある部屋で何日か過ごしました。カーテンでなにかするといけないという理由で窓にはカーテンはありませんでした。同じ理由でシーツ類もありませんでした。

 

しばらくするとまた病室を移動しました。今度は病室の外に出られます。部屋にはベッドだけです。でも今度はカーテンと布団にはシーツがついていました。トイレに行くときは部屋から出る必要があります。中から鍵がかけられるので夜も心配はありません。

その日初めてこんな空間にいたんだなと分かりました。何階にいるのかは分かりませんでしたが、病棟はコの字型になっており、真ん中は中庭でした。そこだけ外に出られます。中庭の端っこにタバコを吸えるスペースがありました。

病室と中庭の間には机と椅子がたくさん並んでおり、テレビもありました。食事をしたり、塗り絵やオセロなどのゲームをしてる人たちがいました。病棟には20〜30人くらいの老若男女がいました。

その頃やっと入浴ができるようになりました。入浴は週に3回でした。

 

食事はひとりひとり違っていて、名前を呼ばれて自分の食事を取りに行くスタイルでした。いつも同じ席で食事をする人が多く、自然と私も同じ席で食事をするようになりました。

薬は管理されていて毎食後1人ずつ配られて看護師さんの目の前で飲んでいました。就寝前の薬は20時から配布されていました。自分が寝たいタイミングでナースステーションに取りに行ってその場で飲んでました。 やることがないので早々に薬は飲んで、夜は20時過ぎに就寝して朝5時くらいに起きてました。

私物は管理されていて、使うたびにナースステーションに申請しなければなりませんでした。それは面倒くさかったです。

 

スマホは禁止されていたので公衆電話で夫や実母に電話して、持ってきて欲しいものを伝えてました。あと週に1度欲しいものリストが配られ、記入すると翌日に貰えてました。品物は主に日用品です。お金は入院費とは別に管理されていて、そこから引かれていました。

また、時々美容師さんがやってきて髪の毛をカットしてくれたり、移動図書館がやって来て本を借りれたりしました。

 

たぶん1ヶ月くらいして、ようやく私物を自分で管理させてもらえるようになりました。洋服類は洗濯乾燥機があったのでそれで洗っていました。その頃は薬のおかげかだいぶ調子が良くて、早く退院したいなーなんて思ってました。

 

その間、夫とミチがどうしていたかというと…。

ミチは保育園を休んでいました。日中は隣の市にいる実母のところにいました。朝夫が車で連れて行き、時短で帰ってきて20時頃に回収して、車の中で寝たのを自宅の布団に置く、ということをしていたそうです。保育園のお迎えには間に合わなかったんです。

あの日、私が入院した日もお迎えが間に合わず、超延長保育になったそうです。そしてその時に状況を園長先生たちに話したそうです。

 

入院生活も慣れてきて顔見知りの患者さんも増えていきました。一緒にオセロやカードゲームをやったりしました。 いつ退院できるか分からない状態なので、仕事は辞めようと夫と話しました。私は退職願いを書いて、今度夫に職場に持って行って話をしてもらうことにしました。

 

 

そしてその予定の日、話し合いが終わった夫に電話すると思いもしなかった話が出てきました。

 

「懲戒解雇にするって言われた」

 

えっ…?

私は言葉が出ませんでした。

 

警察沙汰にしたこと、他の従業員に迷惑をかけたことなどの理由で懲戒解雇となったそうです。そしてこのクリニックに2度と関わらないこと、従業員にも連絡は取らないことと言われたそうです。そのままロッカーに残っていた荷物を渡され、職場の鍵を近日中に返すことになりました。

夫は言い返すのも馬鹿らしいくらいの態度だったと言っていました。退職願いは渡さなかったけど、従業員宛ての手紙は渡して来たと言っていました。でも読まれたかどうかは分かりません。

 

そのとき私は「あ、本当に私は不要な人間だったんだ」と酷く落ち込みました。自分なりにすごく頑張って仕事をしていたけれど、全く評価されていなかったんです。とてもショックでした。

 

その頃になると院内外出が認められるようになりました。スマホに触れるようになり、自分で売店に行って買い物もできるようになりました。自由時間は3時間ほどでしたが、そのほとんどをTwitterに費やしていた気がします。(そのへんは私らしい)玄関の外のベンチで座って、カフェオレを飲みながら過ごしていました。

作業療法もやりました。陶芸をしたり、革細工を作ったり、折り紙を折ったり、色々やりましたが革細工が楽しかったです。

 

入院患者さんとは普通に話すことができましたが、入院している理由を自覚している人としてない人がいました。みんな、色んな事情で入院してるんだなと思いました。

そして1人の男性患者さんにつきまとわれるようになりました。なるべく1人にならないよう、誰かとゲームをしてたり、部屋にいるときは鍵をかけて過ごしました。

そろそろ限界で担当看護師さんに相談しようと思っていた頃、その男性患者さんに抱きつかれる事件が起きました。 その日のうちに看護師さんに話し、次の日には主治医に退院したいことを話しました。するとその男性患者さんは病棟を移ることになりました。「もうこれで絶対会わないから!」と主治医に説明されましたが私はずっと退院したいと泣いていました。

その翌日、主治医から電話で連絡をされた夫がやって来ました。 保護入院という自害他害をする可能性のある入院から、任意入院に切り替わっていたので退院は出来るだろうと夫と主治医が話し合いました。

まだ私は退院するタイミングではなかったようですが、逃げるように退院しました。

 

そして、約2ヶ月ぶりに帰宅しました。 最初はまず自宅の階段を登ることが出来なくて焦りました。四つん這いじゃなきゃ登れません。入院生活で筋力が落ちていたんです。なにをするにもやっとのことで、あぁなんにもできないんだと落ち込みました。

退院したての頃のことは正直覚えていません。

その辺で記憶は止まっています。

多分私は寝たきり生活で、夫が超時短勤務になり保育園の送迎などしていたと思います。

 

ショックだったことはもうひとつ。 クビになった職場の同僚の、誰1人からもメッセージは来ませんでした。 子持ちママとして一緒にがんばろうね!なんて話していたのに、本当はそんなこと思わず、どうして私だけ先に帰れるんだろうと不満があったのでしょうか。

私はメアドを変えて、他のSNSも全員ブロックしました。

 

「子育てママがいます」「育休復帰経験者あり」そんな求人のメッセージを見て、ここでならずっと働いていけるなと思っていたのに。

そんなことありませんでした。

もう4年が過ぎたのに、まだ思い出すと落ち込みます。

職場は近所なので、買い物行くときに近くを通ることがあります。

そのたび動悸がします。

まだまだトラウマです。

早く忘れてしまいたいです。

 

備忘録として今回ブログにしました。忘れたいのに忘れたくないのでしょうか。まだ自分の中で整理ができてないんですよね。頭の隅っこに置いてあるんですね。考えないようにしています。でも、考えてしまう。時間が解決するのでしょうか。それはいつでしょうか。分からないままはしんどいです。

 

とりあえず、今を生きるしかありません。

ビール飲もう。

 

 

 

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最近のミチ。前置きするようになった。意味は不明。 

 


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